イラスト:現栃木県美術作家連盟会長 渡邉 泰秀石バーはナオ子ちゃんのことをひっつき虫と呼んでいる。
部屋にいる時でさえ、ママの後を追いかけてエプロンの裾を離さないからだ。
その上神経質で、テーブルの上に落ちた食べ物さえ触れようとしない。
ある日石バーは、意を決して「保育園のお迎えは自分がやる」と言い出した。
当然、3才のナオ子ちゃんはリュックを背負って歩く事になる。
でも、保育園から自宅までの約1KMの道のりは遠く、
途中おんぶを迫るナオ子ちゃんを石バーはヨイショと抱き上げると、
畑の土止め用の石垣の上へポンと乗せてあげる。
そこに立つと赤い保育園の建物が一望でき、黄金色に実った稲穂が、
まるで波乗りでもするように一斉に風になびいてゆくのが見えるからだ。
西南の方向にうっすらと富士山も見える。
遠くの建物との間にはさまって、まるで遠慮でもしているかのように、
小さく小さく見えるのだ。
“あれが日本一高い山なんだよ。すごいね〜見えるかな?
遠い遠い所にあるんだよ。静岡県だって!”
大きく目を見開いてその目を細くしょぼつかせて、
石バーは、日本一の山を一生懸命説明する。
時々ポケットからヤクルトやせんべいも出してあげる。
でも、寒いのか園児服の中に首をひっこめて、ナオ子ちゃんは鼻水をなめ始めた。
“ダメ!鼻水なめちゃ!”
石バーの短い声が飛ぶ。
“はな水なめるとほっとするの…”
下を向いて… その目はもう赤く涙ぐんでいる。
石バーは深くため息をつくと、半天でナオ子ちゃんの
小さな体をリュックごと抱きしめる。
まもなく西の空一帯に広がる日光連山が濃い群青となって、
くっきりと夕焼け空に浮かび上がる。
その上を朱やオレンジやピンクの夕焼け雲が炎のように揺れ動き、
やがて真っ赤な円だけになった太陽が一瞬白い光に包まれたかと思うと、
あっと言う間に峯の間にすべりおちてゆく。
落日だ…。
と同時にあたりは急に暗くなって風が冷たく吹き始める。
時間にして3分。
2人はしっかりと抱き合ってこの夕日を見つめる。
“山の中に隠れちゃったね? お日さま、お家へ帰っちゃったのかな?”
“…うん…”ナオ子ちゃんが又鼻水をなめはじめた。
石バーは声をやさしく聞いてみる。
“ママのこと呼んでみようか?”
“うん。ママ〜” 突然ナオ子ちゃんが泣き声になる。
もう歩くのが嫌で半分泣いていたのだ。
遠く男体山からの青い気流に乗って降りてきた何十匹もの
赤とんぼが高い夕闇の上空を風を切って飛んでいる。
もうすぐどこかへ降りてくるにちがいない。
“ママ〜、ママゴ〜ン”
ナオ子ちゃんの悲しげな声が風に流れる。周りには誰もいない。
黄金色の稲田は薄闇に溶合い、ライトをつけはじめた車の
行き交うのが遠くに見えるばかりだ。
“ママ〜”
“怪獣ママゴ〜ン”
夕闇の空に向って2人は思いっきり呼んでみる。
これはナオ子ちゃんに元気を出させる為石バーがつけた魔法の呼び名だ。
すると、本当に不思議なのだ。
いつも必ず薄暗い十字路の林の奥からママの白い車が見えるのだ。
“ママだ!”
“ママが来た!”
ナオ子ちゃんはとうとう泣き出して両手を車に向かって差し出している。
そして石バーは低い声で叱られる。
“こんなに暗くなって!お姑(かあ)さんにでも知られたらどうすんのよ!
事故にでもあったら何て言うの!全くもう… 風邪気味だというのに…!“
石バーは大変な思いをしてナオ子ちゃんを連れ出しているのだ。
すべてはこれから繰り広げられる2人の大冒険の為に。
石バーは時々興奮で胸が詰まりそうになるくらいだ。
すべては弱虫ナオ子を矯正する為なのだ。